広島高等裁判所松江支部 昭和57年(ネ)17号 判決
控訴人 国
代理人 佐藤拓 坂田弘 小下馨 川島吉人 長沢文雄
被控訴人 石賀美代子
主文
原判決中、控訴人に関する部分のうち控訴人敗訴の部分を取り消す。
被控訴人の請求を棄却する。
訴訟費用中当審および原審において控訴人と被控訴人との間に生じた部分は被控訴人の負担とする。
事実
第一当事者双方の申立
一 控訴人
主文同旨の判決。
二 被控訴人
本件控訴を棄却する。
控訴費用は控訴人の負担とする。
との判決。
第二主張
次のとおり付加するほか原判決事実摘示中控訴人と被控訴人とに関する部分の記載と同一であるから、ここにこれを引用する。
一 控訴人
1 山崎検察官の公訴提起時における手持証拠
原判決事実摘示のうち、「三 被告国の主張」の項に挙示の各資料のほか、司法警察員作成の昭和四四年九月二七日付検視調書(<証拠略>)、医師岡迪夫作成の死体検案書(<証拠略>)、司法警察員作成の昭和四五年二月一七日付捜査関係事項照会書(<証拠略>)、鳥取県立厚生病院長作成の右回答書(<証拠略>)、医師湯川勝託作成の診断書(<証拠略>)、検察事務官作成の同年一二月一〇日付電話受発書(<証拠略>)、同月二四日付電話受発書(<証拠略>)、沢田良作の司法警察員に対する供述調書(<証拠略>)、山田艶子の司法警察員に対する供述調書(<証拠略>)、被控訴人の司法警察員に対する昭和四四年一二月九日付供述調書(<証拠略>)がある。
山崎検察官は、以上のような証拠を総合的、論理的に検討した結果、本件事故の発生原因は、密室状態となつていた本件風呂場内に設置されていた本件風呂釜が酸素欠乏のため不完全燃焼して一酸化炭素を発生させ、それが排気筒が設置されていなかつたため右風呂場内に充満して被害者らを一酸化炭素中毒に罹らしめたものであり、被控訴人には、本件風呂釜は排気筒を設置しなければ危険であることを従前から熟知していながらそれを実施しなかつた点において、本件風呂場の管理責任者として重大な過失があると判断したものであり、その判断は以上のような証拠を前提として考慮するとき、通常の検察官としての判断を著しく逸脱するものとは到底認められないし、その心証形成も誠に合理的かつ十分なる根拠に基づくものであつたというべきである。
2 論点に対する見解
(一) 本件風呂釜の捜査の必要性について
前掲各証拠によれば、本件風呂釜は設置後約三か月程度の新品同様の有名メーカー品であつて、湯を沸かす機能にも支障がなかつたこと、右風呂釜を設置した北川賢治も説明書どおり取り付けた旨供述していること、プロパンガス供給業者の従業員である吉田孝雄は本件風呂釜(殊にバーナー等)を点検して異常のないことを確認した旨供述していることが認められ、一方本件風呂釜には一酸化炭素中毒などを防ぐため通常備付けられているべき屋外への排気筒が取り付けられていなかつたうえ、事故当時、窓、板戸も閉じられていて完全な密室状態であつた事実も明らかであつたのであつて、このような状況下においては、本件風呂釜が不完全燃焼を起こして一酸化炭素を排出し、これが充満した原因は換気設備がなかつたことによるものと判断するのも十分に理由のあるところであつて、更に本件風呂釜の部品の組立てに異常があるのではないかとの事情を推認し、右風呂釜を分解して検査する等の捜査が必要不可欠であつたとは到底考えられない。
また右風呂釜は、本件事故後も継続して使用されていたのであるから、事故発生後二か月も経つてなされた部品交換の事実を知つたとしても、更に被控訴人から格別の指摘でもない限り、通常の使用に基づく消耗部品の交換という程度に判断するのが普通であつて、ボイラー本体と遮熱板の逆組立(この事実は刑事事件の公判が相当進行した段階で初めて被控訴人側から指摘、主張された。)という重大な設置上の瑕疵があるということまで疑つてこの点の捜査をするのが当然の義務であるということはできない。
(二) 三上鑑定の評価について
三上鑑定は、風呂場の脱衣場と浴室との間にあるガラス戸を閉じた状態で鑑定している。
ところで本件事故直前において右ガラス戸が閉じられていたかどうかについては、被害者の入浴前(即ち浴室使用前)ならば、右ガラス戸は閉まつていたものと推測すべきであるし、入浴中ならば、被害者山田艶子が若年の婦人であることや、本件事故発生当時は九月下旬の夜間であつて、気候もかなり冷涼なころと推測されることからすると、同女は、右ガラス戸を閉めていたのではないかと推測するのが自然である。そして、武中孝が本件事故を発見した当初、同女の両足が浴室から脱衣場の方へ出ていた事実は、同女が浴室からの出入りの際に、一酸化中毒のため遂に昏倒したことを示すものとも考えられる。
山崎検察官は、右の点に留意し、ガラス戸が閉じられていたと推認して三上鑑定の結果を評価したものである。
また三上鑑定人の採用した検知管による測定方法が正確なデータをもたらすことは古徳鑑定書自体からも明らかであり、両鑑定書の測定値程度の倍、半分の相違は多少の条件の相違で容易に現われるものであることも古徳証人の指摘するところで、三上鑑定は鑑定当時の条件下における測定結果としては正当なものと評価すべきものである。
更に、三上鑑定にいう一酸化炭素濃度およびその人体に及ぼす中毒作用と本件の致死および重篤な傷害の結果との関連についてみるに、死亡したのは生後僅か九か月の乳児であつて、有害物質に対する抵抗力が微弱であろうことは容易に考えられるところであり、また、三上鑑定書によつても、本件風呂釜のボイラー点火後三〇分で既に人間に中毒作用を生じさせるに足る一酸化炭素濃度が検知されたというのであるから、更に長時間に亘つて本件風呂釜を使用すれば一酸化炭素濃度はより高レベルとなり、僅少な呼吸時間でも人間の生命、身体に重大なる危害をもたらすこととなることは、右鑑定書のみでも既に十分推知され得るところであり、山崎検察官は、この点さらに三上鑑定人に照会し、確認もしている。
3 本件公訴提起の適法性
(一) 本件事故当時は浴室の窓および表の板戸は閉め切られて密室状態になつていた。そして浴室と脱衣場との間のガラス戸が前述のとおり閉じられていたとすると、その場合の遮熱板の逆取付けによる一酸化炭素の発生状況は、古徳鑑定を参考にすると鑑定書の表四(<証拠略>)記載のとおりである。次に事故当時の風呂釜の燃焼時間は、風呂を沸かすこと自体に一時間前後を要するし、被害者らが発見されたときも燃焼中であつたことからすれば、相当長時間燃焼していたと認められる。そうすると、古徳鑑定に従えば、殺人的な高濃度の一酸化炭素発生のため被害者らは殆ど数分で死亡している筈のものである(<証拠略>)。しかし、本件においては、抵抗力の弱い生後九か月の幼児である山田幸恵さえ風呂場(脱衣所)内で死亡せず、病院に運び込まれて後にようやく死亡し、同艶子は後遺症があるものの回復し、退院するまでに至つている。このことは、本件事故の原因たる一酸化炭素の発生が遮熱板の逆取付けによる高濃度のものでなく、それ以外の原因による一酸化炭素の発生と考える方がより合理的であることを示すものである。
(二) 遮熱板の逆取付けの場合、右のように極めて危険性の高い一酸化炭素が短時間で発生していたにも拘らず、風呂釜設置後三か月間全く無事故であつたということは、本件風呂釜の遮熱板は逆取付けでありながら、なお一酸化炭素の発生が激減する原因(窓や板戸を開けて入溶するという偶然事のみによれない)が本件事故以前から存在していたものとみるほかない。そしてそれは、高橋証人や同意見書(<証拠略>)の指摘する如く、逆取付けでありながら正常取付けと同じ状況にあつたこと、すなわち遮熱板が焼け切れていたものと考える以外にないのである。
(三) 本件事故における一酸化炭素の発生原因が遮熱板の逆取付けによるものでない以上、残る原因は、前記のとおり本件事故当時は風呂場が密室状態であつたうえ、プロパンガスが燃焼に多量の酸素を必要とすること等からすれば、酸素不足による不完全燃焼以外には考えられない。そして、本件事故は、更にこうして発生した一酸化炭素を屋外に排出する排気筒がなかつたために、これが充満したことから発生したと考えるほかない。この因果の系列こそ、担当検察官が合理的に結論したものと帰一する。
(四) 仮りに百歩譲つて本件事故当時も、遮熱板が焼け切れていなかつたため高濃度の一酸化炭素が発生していたとしても、本件事故はそれのみでは生じなかつたのである。右の事情に更に被控訴人が排気筒を設置していなかつたことが原因となつて室内に一酸化炭素が充満したため発生したのである。このことは、本件事故後に排気筒を設置することにより同種事故の発生を防止し得ていることや、排気筒を設置すれば室内の一酸化炭素濃度が減少するのは明らかなことからも当然いえることがらである(<証拠略>)。
そして、担当検察官は、被控訴人に対し同人が本件風呂場の管理者として当然排気筒を設置すべきであつたにも拘らずそれを怠つた責任を問うているのである。
(五) 以上のとおり、本件において、遮熱板の逆取付けに関する証拠の収集をしないでした担当検察官の本件公訴提起は全く適法であるし、論ずべき過失もなかつたものである。
二 被控訴人
1 争点に対する見解
(一) 本件風呂釜の捜査の必要性について
本件事故は、本件風呂釜より発生した過度の一酸化炭素の充満の結果発生したものであること、事故時に使用されていた風呂釜は有名会社の製品であり、相当高度の性能を有する器具であること、それは約三か月前に本件風呂場建物の新築と同時に新規に購入され新設されたものであること、本件風呂釜は新設後約三か月間連日常用されたが、本件事故発生まで利用者に何等の事故も、事故発生の予感さえも与えることもなく経過していたこと、本件事故は全く予徴もなく突然発生したこと、被害者らは当日過去三か月間の本件浴場利用の慣行通りに利用中事故発生の災に遭つたこと、右事故発生までの三か月間本件浴場の焚口、脱衣場の室には排気筒が設けられていなかつたこと、これらの各事実は検察庁に送致された証拠のみによつて充分明らかなことである。
検察官が右各事実をそのまま素直に認識すれば、従前の浴場の諸条件と事故時の同諸条件のうち、相違する条件は一酸化炭素の過度の排出の事実のみであり、当然事故当日ガス発生源たる本件風呂釜自体の機構、機能に突然何等かの障害が発生したことに因るものでないかとまず疑うのが常識且つ論理的必然であつて、捜査の第一の焦点は風呂釜自体に当てられねばならない。これは捜査官として極めて通常の注意義務の範囲に属する判断である。
勿論、検察官の手許には三上鑑定があり、同鑑定は密室状態における本件風呂釜(正常なものとして)の一酸化炭素排出の危険性を示している。検察官は三上鑑定をそのまま信頼性あるものとして判断の資料の中心に据えたものと思われるが、それならば前記三か月間の無事故・無予徴の事実と矛盾することになる。一方検察官は右三か月間の浴場利用方法について具体的には入口の板戸、浴室に通じるガラス戸、浴室の窓のガラス戸の日常的な開閉状況について特に捜査を行つた形跡もない。もし、日常的に前記の三か所の戸を閉めて利用しているとすれば、三上鑑定の評価について慎重でなければならない。従つて、検察官は三上鑑定の存在に拘らず、本件風呂釜を捜査しなければならない注意義務があつたのである。もし、検察官がこの注意義務を守つて捜査したならば、或いは事故当日のボイラー本体が廃棄される前に発見押収できたかも知れないし、たとえ廃棄後であつても関係者の証言によつて逆取付け、遮熱板変形の事実を確認できた筈である。
(二) 三上鑑定の評価について
空気中の一酸化炭素の濃度は、その排出量とその室内の空間の容量と換気の程度によつて決定されるものであり、捜査官の手持証拠によると、本件風呂場のガラス戸が開いていたことは事実であるから、開いた状態をもとに鑑定し、次いで閉じた状態で鑑定すべきであり、閉じた状態における三上鑑定は、その点を考慮して評価すべきであつた。
また三上鑑定については、鑑定途中不良検知管の使用が判明して中断している事実があり、さらに右鑑定に使用された風呂釜は、ボイラー本体の組立てたもの一式を取り替えたもので、台胴やバーナーは取り替えていないし、新しく取り替えたボイラー本体は旧来のものとカバーの型式が違つたものであつた(<証拠略>)から、その鑑定結果は、この点でも信頼性が薄い。
2 本件公訴提起の違法性
(一) 本件の事故発生時の諸条件を検討すると、建物の構造、造作は排気筒の不設置も含めて、過去三か月間全く変動がない。その利用状態にも変動がない。控訴人は、遮熱板の焼け切れをいうが、右事実が発見されたのは事故後一か月以上経過した一一月ころであるから、事故時にどの程度焼け切れていたかは不明である。とすれば、古徳鑑定は風呂釜設置後焼け切れ発生までの間の条件と一致する。三か月間無事故であつたのは、まさに外的条件の違いによるものであろう。その条件の違いとは、古徳鑑定の結果から推定すれば、(1)板戸、ガラス戸を閉じた場合、(2)板戸を〇・一五メートル開きガラス戸を閉じた場合、(3)板戸、ガラス戸を全開した場合の条件の違いである。古徳鑑定の「説明」によると(2)の場合は脱衣所で中または強度の中毒症状(一、二時間で、以下同じ)、浴室で中程度の中毒症状、(3)の場合は脱衣所で〇から軽度まで、浴室でほぼ同程度、というのであるから、正に板戸とガラス戸の開閉という条件の違いが一酸化炭素の濃度に大きく影響している条件である。七月から九月は最も暑い季節であるから、板戸、ガラス戸を半開または全開することは充分有り得ることであり、鑑定条件にはなつていないが、浴室の窓もおそらく開くことが多いであろうから、その場合は右(2)・(3)の条件以上の影響が生ずるであろうと合理的に推定され、この条件の違いこそが三か月無事故の原因と考えられる。つまり、三か月無事故の理由は古徳鑑定の測定値を否定することによつて説明するのではなく、古徳鑑定を基礎として鑑定条件以外の条件が加わつた為であると考え、具体的には入浴時の浴室建物の状態は密室状態でないと考えるのが、合理的な且つ論理的な説明である。
三か月間異常がなく経過した後に突然発生した事故の事故原因としては、三か月間に変動した可能性のある唯一の条件である風呂釜の調査こそ、捜査上第一に行わなければならないことであつた。この捜査の常識上当然の処置が採られ、本件風呂釜の組立の逆取付けの事実が発見され、次いで正常な状態における一酸化炭素の発生・排出の程度とその安全性が明らかとなり(古徳鑑定の結果で推定される)、逆取付けの場合の危険性が明らかとなれば、被控訴人の重過失を認定し公訴を提起することの合理的な根拠は認められなかつたであろう。
(二) 排気筒設置については、被控訴人は何回も大工北川賢治に督促していたが、北川は最新の風呂釜で完全燃焼するから不要であるとして応じなかつた事実がある。
なるほど、風呂釜の一酸化炭素排出量がどうであろうと、排気筒が設備されていれば、事故発生に至らなかつたかも知れないが、排気筒がなくても風呂釜が正常に組立てられていた場合には事故発生の可能性が無いという(前記古徳鑑定)場合には、被控訴人の刑事責任論としては、風呂釜の性能・故障の有無・排気筒の要・不要と、これらに対する被控訴人の知識・認識の有無或いは程度、設計・施工の経過などを検討しなければならないのであり、排気筒の不設置のみで直ちに被控訴人の重過失を認定することは出来ないのである。
(三) 以上のとおり、検察官が、本件風呂釜の捜査を怠り、排気筒の存否にのみ関心を集中した結果、右風呂釜の直接の設置者、浴室の設計者をはじめとして、関係証人、証拠物についての捜査と責任追及の視点を欠いて、充分な捜査が遂げられていない。従つて、検察官には風呂釜の構造的異状の不捜査および三上鑑定の誤評価という注意義務違反に止らず、右義務違反に起因する全般の捜査懈怠という注意義務違反がある。検察官が通常の義務を遂行していたならば、被控訴人には重過失はもとより、過失も無いことが判明したであろう。
第三証拠関係<略>
理由
第一被控訴人に対する重過失致死傷被告事件の経緯
被控訴人は、昭和四四年七月五日ころから鳥取県倉吉市越中町一五八〇番地六に共同住宅(一〇世帯用)一棟と付属建物(木造平家建物置、風呂場、洗濯場一棟)を建築して貸アパート業を営み、同年八月当時、八世帯を入居させ、右付属建物内にある風呂場を入居者に利用させていたところ、同年九月二七日午後七時ころから八時半ころまでの間、入居者山田艶子(当時二五歳)がその子山田幸恵(当時九か月)とともに入浴中、一酸化炭素中毒で倒れ、艶子は加療三四四日間を要する右中毒の傷害を負い、幸恵は同日午後九時ころ死亡したこと、本件事故に関し所轄の鳥取県警察倉吉警察署が刑事事件として捜査にあたり、昭和四五年九月三〇日事件送致を受けた倉吉区検察庁検察官副検事山崎貞一は、自ら捜査を遂げ、同年一二月二六日、原判決別紙記載の公訴事実により被控訴人に対する重過失致死傷被告事件として倉吉簡易裁判所に公訴を提起し、略式命令を請求したこと、同裁判所裁判官は、同日、罰金五万円の略式命令を発したが、被控訴人が正式裁判を求め、審理の結果、同裁判所が昭和五二年三月三日、本件風呂場の構造のもとでは、プロパンガスを九〇分間継続して燃焼させても、本件風呂場から排出される一酸化炭素の濃度は人体に被害を及ぼす程度に達しないが、本件のように風呂釜の部品の遮熱板とボイラー本体が上下逆に取り付けられていると一酸化炭素が多量に発生し、右濃度は人を死傷に至らせる程度に達するのであり、事故発生の原因は右部品の逆取付けにあり、これを被控訴人が予見できなかつた旨判示して、同人に対し無罪の判決を言い渡し、右判決は控訴されることなく同月一八日確定したこと、以上の事実は当事者間に争いがない。
第二検察官による公訴提起の違法性の有無
一 検察官の公訴の提起が違法であるとするためには、刑事事件において無罪の判決が確定したというだけでは足りない。けだし、公訴の提起は、検察官が裁判所に対して犯罪の成否、刑罰権の存否につき審判を求める意思表示にほかならないのであるから、起訴時あるいは公訴追行時における検察官の心証は、その性質上、判決時における裁判官の心証と異なり、起訴時あるいは公訴追行時における各種の証拠資料を総合勘案して合理的な判断過程により有罪と認められる嫌疑があれば足りるものと解するのが相当であるからである(最高裁昭和五三年一〇月二〇日第二小判決、民集三二巻七号一三六七頁参照)。したがつて、証拠の収集およびその評価を誤り、証拠上有罪判決を期待しうる合理的な理由がないのに、あえて公訴を提起した場合に限り検察官に過失があり、公訴の提起が違法となるものである。
二 起訴時における検察官の手持証拠
<証拠略>によれば、本件公訴提起当時、公訴事実についての検察官の手持証拠の主なものおよびその記載内容のうち重要な部分の要旨は次のとおりであつたことが認められる。
(1) 司法警察員作成の昭和四四年九月三〇日付実況見分調書(<証拠略>)
イ 本件事故当時の午後一〇時二〇分から一〇時五〇分まで、被控訴人の子の石賀敬之立会のもとに、本件風呂場の実況見分をした。
ロ 本件風呂場は付属建物(木造平家建)の一部で、間口(南北)は一・七メートル、奥行(東西)は二・七メートルあり、入口の引戸(板戸)を開けると正面に土間、その右手(北側)に脱衣場が、また土間部分と脱衣場の正面奥(西側)に浴室がある。
ハ 本件風呂場の内部の土間部分は南北の長さ一メートル、東西の長さ〇・七五メートル(床面積〇・七五平方メートル)であり、天井までの高さが二・五二メートルあり、そこに本件風呂釜が設置されている。右風呂釜には排気筒がなく、またガスパイプや循環パイプには異常は認められない。
ハ 脱衣場は土間より二〇センチメートル高くコンクリートで作られ、南北の長さ〇・七メートル、東西の長さ〇・七五メートル(床面積〇・五二五平方メートル)であり、天井までの高さ二・三メートルで、浴室との間にガラス戸(幅〇・六メートル、高さ一・七五メートル)が取り付けられており、脱衣場側に開くようになつている。
ホ 浴室は右脱衣場よりさらに約二〇センチメートル高く、タイル張りの洗場と浴槽があり、室内は南北、東西の長さとも一・七メートル(床面積二・八九平方メートル)であり、天井までの高さが二・一五メートルであり、その南東隅に浴槽があり、浴室の周囲の壁がコンクリート、床がタイル張りになつており、西側壁には二枚のガラス戸のはまつた窓があり、その外側に防火戸があり、その外側にビニール製波板の目隠しが取り付けられている。実況見分時、右ガラス戸は閉じられていた。浴室の天井には東西〇・二メートル、南北〇・四メートルのビニール網が張り付けられた通気口がある。
ヘ 浴室の洗場には、石けん箱とタオル一枚がおいてある。
ト 本件風呂場内には、右通気口のほかには換気口は設けられておらず、表出入口の板戸および浴室の出入口のガラス戸を締めると、土間部分と脱衣場は密室状態となり、本件風呂釜のプロパンガス燃焼に必要な酸素は右空間(空間容積三・一立方メートル)内にあるもののみであり、補給されず、一酸化炭素が右土間部分と脱衣場内に充満する状態にある(以上、風呂場の間取りおよび風呂釜設置の位置関係は別紙見取図のとおり)。
(2) 武中孝の司法警察員(<証拠略>)および検察官(<証拠略>)に対する供述調書
本件事故発見に至るまでの経過―石賀アパート三号室の住人で、午後八時すぎころ夕食を終え、妻に風呂が空いているかどうか様子を見に行かせたところ、「うーん、うーん」という人のうめき声のようなものが聞えると知らせてきた。
発見時の状況―風呂場にかけつけたのは午後八時三〇分ころで、板戸を開けると中から白く薄い煙りのようなものが流れ出て脱衣場の浴室入口寄りに置いてあつた脱衣かごの中に乳児の山田幸恵が目を大きく開けて裸のまま仰向けに横たわつており、浴室入口のガラス戸は開けられたままになつており、母親の山田艶子が頭を浴室の窓側に向け、両足をガラス戸の入口から脱衣場へ一尺位出して真裸で仰向けに倒れており、既に意識がなかつた。風呂釜のガスバーナーはいつもと同じ音で燃焼中であり、発見時には本件風呂場入口の板戸と浴室の西側の窓ガラス戸とも締まつていた。
(3) 司法警察員作成の検視調書(<証拠略>)、医師岡迪夫作成の死体検案書(<証拠略>)
山田幸恵(生後九か月)の死亡日時は昭和四四年九月二七日午後九時五分で、傷害発生(同日午後七時三〇分ころ)から九五分経過しており、直接の死因は一酸化炭素中毒である。
(4) 司法警察員作成の捜査関係事項照会書(<証拠略>)、鳥取県立厚生病院長作成の回答書(<証拠略>)、医師湯川勝託作成の診断書(<証拠略>)、検察事務官作成の昭和四五年一二月一〇日付(<証拠略>)および同年同月二四日付(<証拠略>)の各電話受発書
山田艶子(二五歳)は、昭和四四年九月二七日午後九時五分ころ来院、ガス中毒の疑いで入院させ治療にあたつたが、約半年前までの逆行性健忘が認められた。同年一一月に入り記憶が少しずつ回復し、同月一九日退院し、翌四五年九月五日まで通院加療、同年一二月の時点でなお経過観察中である。
(5) 司法警察員作成の「ガス風呂釜カタログの提出について」と題する昭和四四年一〇月五日付捜査報告書(フジカガス風呂釜のカタログ添付のもの「<証拠略>」)
昭和四四年一〇月五日司法警察員が原告からの任意提出を受けた右カタログには、本件風呂釜と同機種であるFGB―一二〇五E型とFG―4DE型の各特長が説明されており、後者の特長として常に完全燃焼する旨記載されていたが前者についてはそのような記載はない。
(6) 司法警察員作成の昭和四五年八月二〇日付捜査報告書(日立化成工業株式会社等のガス風呂釜のカタログ添付のもの「<証拠略>」)
高木プレス工業株式会社製のガス風呂釜TP―A2型を浴室内または屋内に取り付ける場合は、新鮮な空気を補給するため上下二か所に換気口を設け、排気はかならず煙突セツトで屋外に出すよう、また日立化成工業株式会社製の日立ホームバスHMシリーズ型の据え付けに際しては、ボイラーに必ず排気筒を付け、右排気筒の先は軒下を避けて取り付けるよう、それぞれ注意書がしてある。
(7) 被控訴人の司法警察員に対する昭和四四年一二月九日付供述調書(<証拠略>)
北川賢治が本件風呂場を含めて本件付属建物を建築した。同人は、風呂釜を付けるとき煙突を外に出さなくても大丈夫だが、戸を少し開けておけばよいと被控訴人に話していた。
(8) 北川賢治の司法警察員に対する昭和四五年二月一三日付供述調書(<証拠略>)
北川賢治が丸石産業株式会社上井出張所から本件風呂釜の部品を取り寄せて説明書とおりに組み立てて取り付けた。右説明書には煙突を取り付けて屋外に排気するようにとの注意書もなく、また被控訴人から煙突を付けてほしいと指示されたこともない。本件風呂場の竣工は昭和四四年六月末である。
(9) 吉田孝雄の司法警察員に対する昭和四五年二月一三日付供述調書(<証拠略>)
日ノ丸産業株式会社倉吉営業所に勤務しており、昭和四四年四月ころ、被控訴人から石賀アパートのガス配管工事一式を請負い、下請けに仕事をさせ、同年六月五日、LPガス配管完成検査を終え、七月二日、ガスボンベを取り付け、各ガス器具を点検した。風呂釜のガスバーナー等には問題はなかつたが、換気口もなく煙突も取り付けてないので、このように密室で焚くと酸素不足から不完全燃焼を起こすので、早急に煙突を取り付け屋外に排気するよう注意し、戸を閉めて焚くと立ち消えになつてガスが充満して危険だし、入居者には板戸を開けて使用してもらうようにと指示し、同年九月一六日にも同様の注意をしたところ、北川に煙突を付けてくれるよう頼んであるとのことであつた。本件事故後、数日たつて被控訴人の依頼で、換気口、煙突の取付工事をした。
(10) 沢田良作の司法警察員に対する昭和四五年三月二日付供述調書(<証拠略>)
沢田建築設計事務所を経営しているが、昭和四三年暮に石賀アパートと付属建物である風呂場の設計を頼まれ、図面を作成して県に提出した。公の建物と異なり民間の建物の場合、風呂場の燃焼器具について事前に申し出がなければ風呂場については間取り程度の図面しか作らない。本件の場合も具体的な器具の申請がなかつたので換気口は図面上設けなかつた。
(11) 被控訴人の司法警察員に対する昭和四五年二月一六日付供述調書(<証拠略>)および検察官に対する昭和四五年一一月二〇日付供述調書(<証拠略>)
石賀アパート(一〇世帯用)の建築は遠縁にあたる北川賢治(北川建設経営者)に頼み、ガス風呂釜も取り付けてもらつた。昭和四四年六月末に息子夫婦のほか一世帯が入居した。同年七月二日、日ノ丸産業がプロパンガスを取り付けた際、係の吉田から、風呂は煙突をつけて外に排気するようにしないと危い、戸を閉めて焚くと立ち消えになりガスが充満するおそれがあるので、入居者には戸を開けて焚くよう注意するようにいわれた。煙突の取り付けについては兄山根勝蔵を通して北川に伝えてある筈だ。八月には更に被害者山田艶子夫婦を含む六世帯の入居があつたが、吉田から受けた風呂を焚く際の注意は息子の嫁には伝えたが、他の入居者には話していなかつた。ただ暑いときであつたから皆が板戸を開けたままでガス風呂を使用していた。煙突の取付けか終るまで風呂場の使用を禁止しておけば事故は起きなかつたと思う。
(12) 司法警察員庄司村雄作成の昭和四五年三月二五日付鑑定嘱託書(<証拠略>)
同司法警察員から鳥取県警察本部長に対し同日付で、本件風呂場内に設置してある風呂釜のボイラーを燃焼させた場合、一酸化炭素が発生するかどうか、発生するとすれば、その量、人体に及ぼす影響について鑑定を嘱託する。その鑑定資料は、同日鳥取県警察本部科学捜査研究室技術吏員三上晃が右現場で検査を実施し、一酸化炭素検知管によつて採取したものである。
(13) 鳥取県警察本部長作成の「鑑定書の送付について」と題する昭和四五年五月四日付書面(三上晃作成の鑑定書添付のもの、倉吉警察署同月一一日受付「<証拠略>」)
(イ) (鑑定経過について)
本件事故発生当時、本件風呂場には煙突などの換気装置がなく、密閉された状態であつたが、鑑定資料採取時現在では、風呂釜に煙突が取り付けられ、表戸に通気口が設けられ、通風換気できるように改善されていた。そこで事件当時の状況に復元するため、右煙突を取り外し、通気口に目張りをし、密閉状態として、鑑定資料採取のための実験を行つた。ただし、事件発生当時の風呂釜はその後一部部品を取り替えられており、右当時の状況とは若干相違している。
検査方法は、一リツトルガラス瓶にゴム管を接続し、小型吸引ポンプで数秒間吸引し、ボイラー室の空気を右瓶に採り、これに北川式一酸化炭素B型検知管を取り付けた一〇〇ミリリツトルガス採取器を接続し、空気を吸引し検査した。
その成績は次のとおりである。
ppm
分
上部
(底面から1.5m)
中部
(1m)
下部
(0.5m)
測定値
補正値
測定値
補正値
測定値
補正値
五
〇
―
―
一〇
〇
―
―
一五
一五〇
三七五
―
―
二〇
二〇〇
五〇〇
二〇〇
五〇〇
一〇〇
二五〇
三〇
二五〇
六二五
二〇〇
五〇〇
失敗
四〇
一〇〇
二五〇
一〇〇
二五〇
一〇〇
二五〇
五〇
一〇〇
二五〇
二〇〇
五〇〇
一〇〇
二五〇
バーナーの点火後一〇分以内では、一酸化炭素を検知できず、一五分後三七五PPMを示し、三〇分後六二五PPMの一酸化炭素を検知した。時間経過とともに、その濃度は高くなると考えられるにもかかわらず、四〇分後の測定値が急激に低下し、以後殆ど変化が認められない。その原因を明らかにするため再度前記同様の実験を行つたが、三〇分後の最高濃度の再現性を示さず、一酸化炭素検知管が不良であり呈色しないことがわかつた。そこで四〇分後の測定値は正しい数値でないと判断されたが、検知管をすべて消費したため再実験することができなかつた。人体に及ぼす影響については、ヘンダーソンおよびハガート両氏による中毒作用に対する一酸化炭素濃度と呼吸時間との関係図表および裁判化学実験書を参考とし中毒作用を推定した。
(ロ) (鑑定結果として)
鑑定資料の風呂釜を事件発生当時の状況に復元して燃焼させると、一酸化炭素ガスが多量に発生する。その量は三〇分後五〇〇ないし六二五PPMであり、この濃度の一酸化炭素を三〇分ないし二時間吸入すると、めまいを生じ、中毒作用が現われると推定される。
(14) 検察事務官作成の昭和四五年一二月二四日付電話聴取書(発信者三上晃、あて先検察官、「<証拠略>」)
プロパンガスを完全燃焼させるためには都市ガスの場合に比較し八倍の空気(酸素)が必要とする。本件事故現場のような殆ど密閉された部屋では、酸素が少なく、不完全燃焼するため、多量の一酸化炭素が発生する。
(15) 山田広幸の司法警察員に対する昭和四五年一月三〇日付(<証拠略>)および同年八月二二日付(<証拠略>)の各供述調書
昭和四四年八月二〇日ころ、被控訴人と賃貸借契約を結び、同月二七日ころ、妻艶子、長女幸恵とともに石賀アパートに入居し、当初、銭湯に通つていたが、九月初めころ、石賀アパートの風呂を利用するようになつた。被控訴人からガス風呂の取扱いについて注意を受けたことはない。アパートの住人で共稼ぎでないのは自分のところくらいで、妻も先に沸かして早く入浴しており、当日も一番に入つたようだ。いつもは午後四時から五時の間に点火し、一時間半位で湯が沸き、入浴中は湯を使うので点火したまま使用していた。事故当時ころは寒く、洗場の窓を閉め、また風呂場の板戸も隣りが被控訴人の息子の写真暗室になつていて、よく出入りされていたので、入浴中閉めたまま風呂を焚いていた。
(16) 山田艶子の司法警察員に対する昭和四五年八月二二日付供述調書(<証拠略>)
昭和四四年八月下旬ころ、夫と子と一緒に石賀アパートに入居した。ガス風呂を沸かして入るのはこのアパートに来て初めてである。屋外に排気する煙突もなかつたがガス風呂の焚さ方について何も注意を受けなかつたので、このまま使えばよいと考えた。当時のことは幸恵を連れて風呂に入つたこと、気が付いた時は厚生病院にいたということで、入浴時の状況については全く記憶がない。幸恵が脱衣かごの中にいたということであれば、同女の入浴を先にすませてかごに入れ、私が再び洗場に入ろうとしてそのまま意識を失い倒れたのかも知れない。
三 検察官は右手持証拠に基き本件公訴事実を内容とする起訴の判断をしたものと認められるので、検察官の右判断の合理性について検討する。
(一) 以下判断資料をまとめてみるに、
1 風呂釜の設置等について
前記二、1の検察官の手持証拠(5)、(6)、(8)ないし(10)(以下「証拠」として番号のみ引用する。)によれば、本件風呂場を含む付属建物の設計の段階で設計士沢田良作は、設置する風呂釜の機種を特定して設計依頼を受けていなかつたので、風呂場は換気口をつけない簡単な間取り程度の図面を作成し、そのまま建築施工されたこと、本件風呂釜(フジカフアミリーガス風呂釜FGA―一二〇五E型)を設置した北川賢治は昭和四四年六月末ころ説明書通りに施工した旨述べていること、プロパンガスを最初に取り付けた吉田孝雄は、ガス器具を点検した際、風呂釜のガスバーナー等も見たが異常がなかつた旨述べていること、他の業者の出している風呂釜のカタログによると室内に釜を設置するときは必ず屋外への排気筒を設けるよう注意書があり、被控訴人が任意提出したカタログにはその旨の注意書はなかつたこと、しかし、被控訴人は、右吉田孝雄が、プロパンガスを取り付ける際、同人から排気筒もなく換気口の設備もないままで風呂釜を燃焼させれば、酸素不足から不完全燃焼をきたし、一酸化炭素が充満して危険であるから、風呂を沸かすときは板戸を開けておくこと、早急に排気筒、換気口を設けるように指示を受けていたこと、が認められる。
2 風呂の利用状況について
証拠(15)によると、入浴について入居者の間で特に順番は決まつておらず、希望するものが沸かして入ることになつており、山田夫婦は共働きでなかつたので、妻艶子が最初に沸かして入ることが多かつたこと、付属建物のうち風呂場の南隣りを被控訴人の息子が写真の暗室として使用しており、よく出入りがあつたので、山田夫婦は風呂場の表の板戸を閉めて入浴していたこと、風呂は循環式のもので入浴中は湯を使うので、バーナーはつけたままで風呂に入つていたことが認められる。証拠(9)、(11)によつて認められるとおり、被控訴人は、プロパンガスを取りつけた吉田孝雄から排気筒や換気口のないまま釜を焚いては危険だから板戸を開けておくように注意を受けながら、これを息子夫婦以外の入居者に伝えていなかつた。
本件事故当時、表の板戸は閉まつたままで、しかも土間の風呂釜は燃焼状態にあつたこと証拠(2)のとおりであるが、脱衣場と浴室の間のガラス戸は山田艶子が倒れる前閉まつていたかどうかの点について、証拠(2)によると山田艶子、幸恵が倒れているのが発見されたとき、幸恵は脱衣場のかごの中に、艶子は両足を脱衣場の方に出し、身体は浴室側に倒れ、二人とも真裸であつたこと、また証拠(4)、(16)によると、艶子は、本件事故により逆行性記憶喪失となり、当時の記憶を十分取りもどしてはいないが、これまで幸恵を連れて風呂に入るときの手順からすると、幸恵が脱衣かごの中にいたということであれば、二人で入浴して先に幸恵を洗いあげてかごに入れ、自らは浴室に戻りかけたときではないか、と供述しており、浴室内に石けん箱とタオルがあつたこと(証拠(1)、ヘ)と照らし合わせると、事故の発生は入浴前ではなく、入浴後少なくとも幸恵は入浴を終えた状態であつた可能性が強い。しかも艶子は、当時二五歳の主婦であり、また九月下旬の気候で浴室の窓も閉められていたことなどからすると、幸恵が風呂からあがる前まではガラス戸を閉めて入浴していたものと考えるのが自然であり、風呂場の土間および脱衣場は密室状態であつたと推認するのが自然である。
3 燃焼時間と入浴時間について
入浴した山田艶子の記憶の回復がはかばかしくないのではつきりしないが、夫広幸によると(証拠(15))、事故当日も艶子が最初に風呂を沸かして入つたこと、風呂が沸くのに約一時間前後かかること、入浴中も風呂を焚いていたのであるから、幸恵の入浴が終るまでの時間を計算すると、相当長時間燃焼させていたものと認めることができる。
4 三上鑑定について
イ 証拠(13)によると、鑑定にあたり北川式一酸化炭素B型検知管を使用している。後記四、2の古徳鑑定では堀場製作所燃焼器具排ガス測定装置COPA―一型ほか二種の測定装置を使い、補助的に右検知管を使つているが、検知管を使用して測定することが不適当であるとする資料は見当らない。ただし、証拠(13)のとおり、その成績表の四〇分以降の測定値は経験則に反し、検知管が不良であつたことが窺え、鑑定人自身鑑定書でその点にふれ、四〇分以降の数値が正しくないことを指摘している。しかし、このことから直ちに三〇分までの測定値全部の信頼性を疑うことはできない。
ロ 証拠(13)の鑑定書では、実験時、すでに「風呂釜は一部部品が取り替えられていた」ことを指摘している。右取り替えの理由、時期および部品名について取り調べておくことが望ましいといえるけれども、<証拠略>によれば、取り替えられた部品は、同型式の遮熱板、ボイラー本体、外胴、後面板および上面板であり、バーナーと台胴は従前のままで取り替えていないことが認められ、結果的には従前のものを使用した実験とほぼ同等の測定がなされたものと推認することができる。
ハ 測定時における器具以外の外的条件についてみるに、事故後間もなく風呂釜に屋外への排気筒が取り付けられ、表の板戸に通気口が設けられていたので(証拠(13))、事故当時に近い状態の下で実験するために、右排気筒を取り外し、通気口に目張りをし、さらに浴室に通じるガラス戸を閉めて(証拠(13)添付の写真一)、土間および脱衣場を密室状態にして実験を行つている。前認定のとおり、山田艶子はガラス戸を閉めて入浴したと推認するのが自然であるとすると、土間および脱衣場を密室状態にした実験を不合理だとはいえない。
ニ 測定数値の信頼性については前記イ認定のとおりであつて、専門外の検察官としては、測定結果に経験則上不合理な点が認められない限り一応これを信頼して判断の一資料としたことは相当であつて、起訴後、裁判所によつて命ぜられた古徳鑑定の結果と比較し、数値が倍、半分であるからといつて、公訴の提起にあたつて、捜査段階においてなされた右鑑定資料を信頼したのが間違いであるとまでいえない。ちなみに、<証拠略>によれば、三上鑑定と古徳鑑定との差は、実験時の器具、方法および環境、特に最後の外的条件によつて影響され、風向、風速、室内の温度と室外の温度の差、部屋の目張りの状態等によつて両鑑定の数値の差が出てもおかしくないことが指摘されている。
ホ 証拠(13)によると、三上鑑定は、測定値とその人体に及ぼす影響について、ヘンダーソンおよびハガート両氏による中毒作用に対する一酸化炭素濃度と呼吸時間との関係図表および裁判化学実験書を参考にして中毒作用を推定している。前認定の風呂釜の燃焼時間および入浴時間(証拠(3)、<証拠略>によれば、医師岡迪夫は、傷害発生時刻を午後七時三〇分ころと推定し、九〇分経過していると判断している。)からすると、抵抗力のまだ弱い生後九か月の幸恵が死亡し、母艶子が意識を失つて倒れ、一一か月余の入通院を要する傷害を負つている事実と三上鑑定の中毒作用の推定とが著しくかけ離れたものということはできず、他に検察官が収集した手持証拠と照合して右鑑定結果について疑問をいだかせるに足りる資料は見当らない。
5 プロパンガスの一酸化炭素発生について
山崎検察官は、証拠(14)のとおり、プロパンガスを完全燃焼させるためには都市ガスの場合と比較して八倍の空気(酸素)を必要とし、本件事故現場のように密室状態の部屋では、酸素不足をきたし、不完全燃焼するため、多量の一酸化炭素を発生する旨、事象の因果関係について専門家の意見を聴取している。
(二) 前記(一)、1ないし5によれば、山田艶子、幸恵の母子が入浴中倒れたのは一酸化炭素中毒によるものであること、風呂場に一酸化炭素が充満したのは、表の板戸および浴室へのガラス戸を閉めたままの状態で屋外に排気する設備や換気口のないままガス風呂釜を燃焼させたため、酸素不足をきたし、不完全燃焼により発生したもので、排気筒等の設備があれば右死傷の結果は避けられたにも拘らず、被控訴人がアパートの管理人としてアパート入居者の生命身体の安全を計るべき立場にありながら、右事実を知りながら右安全措置を講ぜず、ために本件事故が起きたものと推論判断するのが合理的であつて、山崎検察官が同様の推論判断をし、被控訴人を重過失致死傷の罪にあたると認めて起訴した判断過程に不合理な点があるとはいえない。
四 そこで遮熱板等の逆取付けの事実が前記検察官の判断との関係でどのような意味をもつものであるかについて更に検討を加える。
1 遮熱板等の逆取付けの事実
前記二の検察官手持証拠のほか、<証拠略>によれば、本件事故のあつた日の午後一〇時二〇分から三〇分間、本件風呂場の実況見分をした司法警察員は、本件風呂場の内外を見分し、さらに本件風呂釜をも見分したが、外から観ただけで、内部の部品を取り外すなどして見分したものではなかつたこと、本件風呂釜は、そのカタログの説明書どおり組み立てると、各部品の順序は、上方から下方に向けて、逆風止、排気筒(第一次)、上面板、遮熱板、ボイラー本体(この外に外胴)、台胴(この内部にバーナー)となるべきところ、このうちボイラー本体と遮熱板が説明書どおり組み立てられて接合していたが、これを台胴の上部に載せるとき、上部と下部とを逆にして取り付けられていたこと、このことが事故後間もない昭和四四年一〇月ころ、被控訴人から本件風呂釜の修理を依頼された丸石産業株式会社従業員秋本信吉らによつて発見されたこと、その際、遮熱板、ボイラー本体等の部品が新品と取り換えられ、説明書どおりに取り付けられたこと、被控訴人は部品が逆に組み立てられていたことを、そのとき初めて知つたが、捜査の重点が排気筒を設置しなかつたこと等にあるように思い込んでいたので、自ら進んで捜査官にその旨を知らせなかつたこと、三上鑑定人が昭和四五年三月二五日、鑑定資料採取のため本件風呂場に赴いたとき、被控訴人から本件風呂釜の部品の一部が本件事故発生後に取り替えられたことを告げられたが、同人が遮熱板とボイラー本体の逆取付けのことには触れなかつたので、三上鑑定書にも「一部部品が取り替えられており、当時の状況と若干相違している」とのみ簡単に記載されていること、倉吉警察署司法警察員は昭和四五年五月一一日、右鑑定書を受け取つているが、検察官への事件送致の日の同年九月三〇日までの間に本件風呂釜の部品のうちのどの部品が取り替えられたかについて捜査をしなかつたこと、検察官もその点について捜査をしなかつたこと、逆取付けの事実は、被控訴人に対する刑事事件の公判審理の途中、昭和四八年二月一六日の証人秋本信吉の証言により明らかにされたものであること、の各事実が認められ、右認定に反する原審における被控訴人の供述部分は前掲各証拠に照らし措信できない。
2 一酸化炭素の発生―古徳鑑定
<証拠略>によれば、古徳鑑定人は、被控訴人に対する重過失致死傷被告事件につき倉吉簡易裁判所から本件事故現場における一酸化炭素濃度の鑑定を命ぜられ、昭和五一年四月二一日、翌二二日と資料を採取し、鑑定書を作成したが、遮熱板とボイラー本体とを上下逆にして取り付け(正常取付けの場合、ボイラー本体とバーナーとの間隔は九・五ないし一二・五センチメートルあるが、逆取付けにするとボイラー本体とバーナーとの間隔は約五・五センチメートルで、その間に遮熱板が入るので、バーナーと遮熱板との間隔は約二・五センチメートルしかない。)、さらに風呂場の表の板戸および中のガラス戸を閉め、土間および脱衣場をほぼ密室状態にして測定すると、脱衣場の〇・七五メートルから一・五メートルの高さのところでは、点火して一〇分後に八〇〇〇PPMを越え、五〇分後には一万六一〇〇から一万六二〇〇PPMと記録されたこと、前者の場合は一〇分程度で致死的となり、後者の場合は、一、二分以内に中毒死をきたす程度の濃度であること、このように高濃度の一酸化炭素が発生するのは、遮熱板があるため炎の温度が高くならず、また空気の供給が妨げられて不完全燃焼を起こすことに原因があることが認められる。
3 事故との因果関係
前記2のとおり、遮熱板等の逆取付けで、しかも密室状態で風呂釜を燃焼させた場合、人体に極めて危険な濃度の一酸化炭素が充満することが考えられるのに、プロパンガスを取り付けた七月上旬から本件事故当日までの約三か月間、本件風呂場でそれらしい事故が全く起きていない。
そこで、その原因について考えるに、<証拠略>によれば、昭和四四年一〇月ころ、被控訴人から修理を頼まれた秋本信吉が台胴からバーナーを取り出そうとしたところ、つかえて出ず、第一次排気筒(逆風止を含めて約六〇センチメートル)を取り外し、上面板を取つてみたところ、前記1のとおり逆取付けの事実が判明したこと、本件風呂釜の遮熱板は、もともと排気筒に通じるように中央に右筒と同じ径の円い穴があけてあり、その穴の前後にそれぞれ二個、合計四個の穴(中央の穴の直径の約三分の一位のもの)があけてあること、遮熱板はアルタイトという商品名のものでできているが、その役目は、バーナーの熱が直接上面板にあたるのを防ぐために上面板とボイラーの中間に設けられるもので比較的薄い板であること、事故後秋本によつて取り出されたとき、大きい中央の穴の周囲が焼け切れ、小さい方の二つの穴は焼け切れてつながつていたこと、風呂のガスバーナーは普通のガスコンロと比べて火力が強く、ガスが燃焼すると必ず水分が出て、熱と水との両方の作用で、炎に接触する金属は酸化作用を受け、酸化が進行するともろくなつて自然に欠落するものであること、遮熱板は毎日四、五時間風呂釜を使用すると、早ければ二、三日、遅くとも一〇日後位には焼け切れ、そうなると炎を遮るものはほとんどなく、一酸化炭素の発生は遮熱板が正常位置に取り付けられた状態に近くなり、濃度が激減し、その危険値は正常なガス器具の調整不良の範囲であり、効果的な二次排気筒を設けることによつて十分事故防止のできるものであること、二次排気筒が無い場合、遮熱板を正常に取り付けたとしても換気設備が不充分である等条件によつては危険性があると思料されること、以上の事実が認められ、これらによるとバーナーのすぐ上に取り付けられた遮熱板は、風呂が焚かれるようになつてから極めて短期間のうちに既に大きく焼け切れ、発生する一酸化炭素の危険度が低減していたものと推認するのが相当である。これに対し、被控訴人は、遮熱板の逆取付けによる一酸化炭素発生の危険度は変らず、無事故の僥倖は一に外的条件、すなわち板戸等を開放して風呂を沸かしていたことにある、遮熱板は本件事故時までに既に焼け切れていたといえず、事故当日、焼け切れという異常が発生したものであると主張する。なるほど前掲古徳鑑定によると、高濃度の一酸化炭素が土間、脱衣場に充満しても板戸の開閉により短時間で濃度が下がることが認められるが、八世帯の利用者の中には女性もおり、三か月の間、いつも板戸や浴室の窓等を開けておくような風呂の入り方をしたとみるのはむしろ不自然で、前記のような推認を覆すまでには至らない。
そうすると、遮熱板の逆取付けの事実はあるものの、比較的早い時期に遮熱板の一部が焼け切れ、遮熱板を正常な位置に取り付けたときと同程度に近い状態となり、一酸化炭素の発生はかなりな程度に減少しており、しかも遮熱板を正常に取り付けたとしても換気設備が不充分である等条件によつては危険性があると思われることからすると、遮熱板等の逆取付けの事実と本件事故発生との因果関係もせいぜい右の限度に止まるものとみるのが相当である。
4 排気、換気設備との関係
<証拠略>によれば、前記3の事実を前提とすると、本件風呂場に屋外への排気筒および換気口の設備があれば、脱衣場および土間に致死をまねくような濃度の一酸化炭素が充満しなかつたことが認められる。
右事実に前項で認定したことを総合勘案すると、遮熱板の逆取付けの事実が本件事故の直接の原因ではなく、むしろ、その主たる要因はアパートを経営し、その風呂場を設置管理している被控訴人が排気筒および換気口の設備を怠つたことにあるということができる。
5 検察官の捜査義務
被控訴人は、捜査の当初において本件風呂釜の内部につき見分ないし分解してする捜査が必要であつたと主張する。捜査が充分尽くされなかつたという点では肯認できるが、捜査の結果、遮熱板、ボイラーの逆取付けの事実が判明し、一酸化炭素発生濃度が正常な取付けの場合に比し危険性が高いとしても、本件事故当時における本件事故との因果関係については、前認定のとおり、むしろ一酸化炭素を屋外に排出する排気筒および換気口の不設置にあると認められるところから、右捜査を尽くさなかつたことが本件公訴提起を誤らしめたものとは認められず、前記三、(一)、1に記載したとおり検察官の手持証拠資料としては、本件風呂釜を設置した業者が本件事故の三か月位前その説明書どおりに施工したものであること、プロパンガス取付業者がガス器具と共にガスバーナーを点検したところ異常がなかつたと報告していることの供述調書が存し、検察官が一応本件風呂釜自体に欠陥がないであろうと判断したことも無理からぬものがあると認められること、他方前記三、(一)、1ないし5の証拠評価の結果、本件事故の発生が右排気筒並びに換気口の不設置に原因する蓋然性が高いと判断され、アパート管理人が右設備設置の必要性を知りながら設置を怠つていたことが認められる以上、一酸化炭素発生源である本件風呂釜自体を捜査時に見分しなかつたこと、また検察官が起訴前本件風呂釜内部の部品が一部取り替えられたことを証拠上知りえながら現物について捜査しなかつたからといつて、これを以つて本件公訴提起を違法ならしむる捜査義務の懈怠があるとは認め難い。
五 以上検討したとおり、検察官が本件公訴提起時において、その手持証拠から犯罪の嫌疑が十分あり、有罪の判決を得ることができると判断したことは合理的な理由があるものというべく、本件公訴提起をもつて違法ということはできない。
第三結論
よつて被控訴人の控訴人に対する本訴請求は、その余の点について判断するまでもなく理由がなく、原判決中控訴人に対する被控訴人の請求を認容した部分は失当であつて、本件控訴は理由があるから、民訴法三八六条により原判決中右認容部分を取り消し、控訴人に対する被控訴人の請求を棄却することとし、訴訟費用の負担について同法九六条、八九条を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判官 田辺博介 松本昭彦 岩田嘉彦)
図面〈省略〉